カテゴリ:心理的背景( 34 )
file716 回避行為の最大のデメリットとは?
file716 回避行為の最大のデメリットとは?

 強迫性障害では、強迫観念と回避行動がセットになっていることが多いようです。私自身、「後悔」という思考が、回避行動になっている気がします。(後悔したたって仕方が無いのに、あれこれ後悔する/自分が買った物について、否定的な意見の有無、買ってよかったのだという証拠を探したりする行為も含まれます(確認行為))


認知行動療法を学ぶ 単行本 – 2011/3  下山 晴彦 (編集) 金剛出版

を読んで書いてありました。
p130辺り


1<強迫観念>

意味が無いとわかっているのに、本人が放置しておけない、不快な考えやイメージ

2<脅迫行為>
強迫観念を一時的に抑制する効果があるために習慣的に繰り返される儀式的行為や、思考活動

と説明されていました。

なるほどと思いました。

 脅迫行為を維持する上で、最大の代償(デメリット・欠点・短所)はなんでしょうか?

 →私は、習慣的、継続的に無駄に労力を使うことで、現状の問題に正面から取りかかれないこと、だと思いました。

 しかし、本には、もっと本質的なことが書いてありました。

 回避行動は、不安の自然な減弱(慣れ)を妨げてしまう点に問題がある
とありました・

 これは、なるほど、と思います。

そして、強迫障害と曝露反応妨害法の組み合わせは「ピカイチ」とありました。

----------
 「後悔」というのは、私の、脅迫的な回避行動(思考面での)だと何となく気づきつつありましたが、その最大の不利益は、「不安の自然な減弱を妨げていることである」ということは、気づきませんでした。

 例えば、服や、道具、パソコン、何でもいいのですがAという商品を10000円で買いました。

 それを、買った後に、ネットで見たら、5000円でA商品は、ネットのサイトで、2時間前に、売っていたことが判明しました。

 これはショックなことです。
 それを防ごうと思ったら、かなりほしいA商品に対して、自分がほしいものに対して、できる限りの情報収集をする必要があります。
 もしかしたら、10000円の商品は、1月後には2000円になっているかも知れませんから、一月後まで待つ必要がある可能性もあります、さらに、今買わないと、在庫がなくなってしまうかも知れません。
 別の店頭では、5000円で売っているかも知れませんし、隣駅ではセールで5200円売ってるかも知れません。

 そういうことは、インターネットでいくらでも時間と労力があればできることですが、あくまでも、時間と労力があればの話なのです。
 そして、それだけの時間と労力は、通常無いのです。

 しかし、自分の買った商品Aは、現実には、どこかで5000円で売っているかも知れないし、今後、また過去に売っていたかも知れないと言うことが、わかるかも知れません。

 そういうことは、一昔前では「現実にはあっても、知りようの無かったこと」であることに注意しなくてはいけません。
 そして、現代は、「知りうる時代」であることも知る必要があります。

私が言いたいのは、そういう情報化時代(古い言葉ですが)の、情報の流れになれる(不安の自然な減弱)必要があると言うことです。

 自分が現場で、ほしいと思って買った物には、それなりの自分の判断があります。(ネット購入だろうが、セールだろうが、値引き前だろうが…)それが、他人が、どういう形態で、いつ頃、いくらで、どのような形で購入したかと言うこととは、無関係であると言うことを知る必要があると思うのです。

 Aを半額で買った方は、私より、「安価に入手できた」のは、事実です。しかし、「自分がそれで損をしている」と考えるのは、いろんな認知の歪みがあります。(マイナス化・全か無…)

 どんな人でも、横の人が、半額で同じものを同じ場所、同じ売り主から買ったら、売り主に、どうなってるのだ!といってもいいかもしれませんが、一見、ネット上では、あたかも、簡単に安く物を買った、お得にできると感じさせるものが多いです。
 インターネットは、時間や場所、その背後にあるものを見えにくくします。

 その見えにくい情報の中では、ショックを受けるようなことが起きやすいですl。

 しかし、そういうものだのだ、と知り、なれていくことは、このネットでは大切な能力だと感じることが多いです。

 誰だって、自分が買った物が、半額で、売ってたら、それはいい気持ちはしませんが、それを恐れる必要も無いのです。むしろ、その半額だけを狙って物を買うことの方が、これまた、何かおかしなことにつながる気もします。お得に囲まれているが、不全感のあるもの。(満足度が低い買い物ばかりする人)
 


 
 

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

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by nichinichiso | 2015-10-19 19:08 | 心理的背景
file712 強迫観念と回避行動での盲点(ぐるぐる思考)
file712 強迫観念と回避行動での盲点

 何かしら、疲れやすかったり、何かよくわからないけど、気分がざわつく時期が長いと思ったときに、不安障害の場合、不安という不快感を強く感じている可能性があります。


 最近よく感じるのは、「ぐるぐる思考」考えても意味の無い「過剰な後悔」、「返品のきかない購買物についての妥当性」「自分がよかれと思って活動したことへの過剰な検証」など、自分の活動や、他人に活動、もしくは社会情勢や、遠くの地の紛争など自分ではどうしようもないことについて「よかれと思って、思考を続けること」が、実は、回避行動になっている場合が多いことです。


 一般に、回避行動は、鍵をかけたか不安で、何度も確認しないといけないので、外出できなくなってしまった。というような場合に、わかりやすいのですが、自分の活動や、決定について、何度も確認、早期、改装、妥当性の検証という、「思考する」という精神状態自体が、回避行動になっているのです。

 頭を使うことは、もちろん、エネルギーを使うことです。ですから、訳のわからないこと、結論の出ないことを考えることは、無尽蔵のエネルギーが必要です。通常は、「まぁ、いっか」他人に対しての助言となれば、「良いじゃない、そんな(小さいこと)」と言えるのに、自分のことになると、自分の行動の正確性、的確度、妥当性、影響度、正否に関して異常なこだわりを持つことがあります。

 実はこれの背後には、何かしら「強迫観念」があり、間違ってはいけない、とか、愛されていなければならない、儲けられなければならない、みんなのためにならねばらなぬ、という自覚しがたい、それでいて、確実に、信念化された深いレベルでの自分の考えが存在しているように思います。

 この(自虐的な)信念、信じて疑わない、自分の生きていく上でのこだわり、態度というものが、現実の自分の行動と思考に脅迫的な影響を与えることがわかるようになると、非常に楽になります。その具体的、信念体系を、感覚的に捉えられると「また来たな」という対処の機会を得られるようになります。

 そこまでたどり着くと、後は、曝露法なりで、その信念と結びついた、回避行動を制御できれば、未来は明るく感じます。
 同じ信念に由来する、自動思考なり、回避行動に気づければ、同じように曝露法を使えばいいからです。

 行為としての回避行動(ネットばかり見てしまう、スマホいじりがやめられず疲れる、愛想笑いで疲れやすい、鍵かけたか心配だ)というものだけでなく、実は、ある件について、「ぐるぐる思考」することも、思考における回避行動といえると思いました。


 例えば、逆説的拡大視 
 自分のやったことの妥当性を検証し続けたくなるなら、逆説的に、実は「大失敗でした」→終わり。(それでも世界は終わらないと知る)で済ませるのも手です。
 病気で、数年働いてなかったのをどうしよう、負け組と人は思うかも知れない、と考えるなら→「負け組の中の負け組の中の負け組です」→終わり(負け組だとしても、世界は終わらないと知る)

 そこら辺については、CBTの技法の本をいくつも試してみて下さい。

 考えることは労力がいることであり、ぐるぐる思考は、エナジーテイキングであり、疲労します。そこにあるのは、自虐的信念に由来する強迫観念であり、回避行動といえると、理解するのもいいと思いました。
 

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by nichinichiso | 2015-10-13 19:12 | 心理的背景
file711 少しは欲求を減らしたらどうだ!(完璧主義)
file711 少しは欲求を減らしたらどうだ!(完璧主義)

 『少しは欲求を減らしたらどうだ!』という、簡単な、自己調整の言葉があります。
 これは、他人に主張するのではなく、むしろ、自分に強制し、完璧(完全)主義で苦しむ場合の、思考と気分を変えることに、私は役立ちました。
 完全主義は、批判をともなう、自虐的な信念の一つです。
 それをつぶさに具体的に見ていくと、生活上の、一つ一つの活動に、高い水準を求めているようです。
 気分障害と言われる人は、自分自身は、炊事、洗濯、読書、治療、カウンセリング、就労、就活、他人の態度、家庭環境、家族の言動、過去の自分、未来の自分、病状の程度…どれも、人並みにできていないと思っているかも知れません。これぐらい以前はできたはずだし、できない自分はだめだという気持ちで、辛くなるなら、それは、基準を下方修正するサインです。

 うつ病というのは、
一つに、①意思の力、動機付けの力を低下させ、まさに、それ故に、人並みにできなくする病気であると言うこと、
また②それによって、自分を卑下するという『症状』によって、病気なりにできることも、本当に「さらにできなくなってしまう」と言うこと、
③ ①②の繰り返しによって、本当に無力になってしまったように感じること という

 非常にやっかいな個人的な世界観の中に埋もれていくように感じました。


 あまりにも、現状とかけ離れた目標を持つことは現実的ではありません。それは、一つ一つの日常のことで、些細なことをやっていないと思っても、その数が多ければ、やはり、苦痛に思うと思います(義務過剰)。

 要するに、自分は、そんなに高いレベルのことを自分に課しているわけではない、主張する場合、その一つ一つが、高くないとしても、「欲求の数」が多すぎないか?と考えてみることは有意義だと思います。

 自分に対して「少しは欲求を減らしたらどうだ!」とつぶやくとき、気持ちがほっとするのであれば、やはり何か課すものが多すぎるのだと思います。
 間引く必要があります。
 その際、恐怖が生じます。
 そこで、行動療法からの流れをくむ、エクスポージャー(曝露法)が役に立ちます。

 50点を目指すというのは、欲求の数を減らすことも、いいことです。
 

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by nichinichiso | 2015-10-12 17:40 | 心理的背景
file678 決めたことが変わることがある(すべき思考)
file678 決めたことが変わることがある(すべき思考)

 その時よかれと思って決断したことが、後で、悪い結果を生むことがあります。
そのことを何度も、後悔し、ぐるぐる思考にはまり、自責の念に駆られ、気分が悪くなる場合たいてい「すべきでなかった」という、should statement (すべき思考)が自動思考に入っていることが多いです。
 これは、認知行動療法では、古典的で、典型的な認知の歪みです。もはや、語ることがないくらいメジャーな思考のエラーです。
 その背後にあるのは、高すぎる要求水準であったり、自他共を成功に導く予言的な能力があるはずだという、すごい考え方です。

 そういう古典的な認知の歪みをあっさりとクリアできるようになると、ある約束が、時間とともに気乗りしなくなるという、事態も生じるようになります。(悪い結果がまだ出ていないが、気分が乗らない)
 その場合、いろいろな理由があり、やった方がいい場合もあり、やらない方がいい場合もあり、どちらが正解か、わからないことも多いものです。

 面接の約束をしたが、その日同時刻に、もっと行きたいと思える(でも正直、迷う)会社の面接もその日しかいけないような場合、前者も「ベストだ」と思って約束したが、後者も「これまたベストだ」と思うことがあります。
 
 その時、同じ時間に、2つ受けられればいいのですが、そうはいきません。
 
 その場合、どう考えたらいいのでしょうか?

 あまりぐるぐる考えると、葛藤や、フラストレーション許容量を超えて、疲労し始めます。そうすると、睡眠が悪くなったり、精神衛生が悪くなり、行動もあれてきます。お酒が増えたり、買い物が増えたり、食べ過ぎたりします。

 その場合、大切なのは、「一度決めたことも、諸事情で、変わることがある」と言うことを知っておくことです。
 その「変化」を「すべきでない」、と考えると、苦しみの元です。
 
 特に、治療経過では、いろんな変化が出てきます。内面的にも、外面的にも、外との関係でもいろんな情報操作が増えてくるのですが、その中で、多くの決断が出てくるようになると、以前した決断を覆した方がいい場合も出てくるのです。

 そういう場合、他人の意見を聞くことも大切です。
 同時に、自分がなぜ、決められないのかを学ぶチャンスでもあります。

 私自身、そういう場合は、「変化すべきでない」と思っていないかを確認します。「自分は変化すべきではない」と思って緊張する場合は、すべき思考にはまっています。逆に、「人は環境に合わせて常に、変化する生き物である」「自分は人だから、常に変化する可能性がある」と思ってほっとするような場合、その変化は妥当なことが多いです。
 こころのどこかで、感じている違和感であると考えるようにしています。(論理を超えた直感)

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by nichinichiso | 2015-04-20 18:20 | 心理的背景
file674 不正だと思うと、怒らずにはいられない(怒りの1視点)
file674 不正だと思うと、怒らずにはいられない(怒りの1視点)

 怒りというのは、非常にやっかいな気分(感情)の一つです。
 ですが、必要な感情でもあります。大切なのは、程度の問題です。
 「怒ってはならぬ!」と思うと、さらに、嘘みたいに怒りは増長する傾向があります。
 「俺(私)は(何かしら不正な事態に)怒っているんだな…。」と思えば少しは、気持ちも柔らかくなります。
 
 その「不正さ」というものが、良くあることであったり、社会通念上妥当であったり、人としての道で会ったり、犯罪であったり、といろいろな性質があるのが常ですが、いずれにしても、怒りすぎは良くありません。疲れてしまいます。
 
 もう一つ、自分が怒ることはない、怒った経験が無い、怒りを知らない、という場合も要注意です。なぜなら、怒りは、動物であれば、よく見られる、本能的な出来事であり。従って、それを自覚できないとなると、制御も出来ないからです。 怒ることを恐れている可能性があります。
 
 「不正さ」というのは、明示または暗黙の約束から発生します。
 自分が、何を不正と感じ、それは、どういう約束をしたからなのかを問うことは、怒りを学ぶ上で重要な要素だと思います。
 実は、その約束は、自分が作っただけのこともありますし、本当の約束だったりもします。いずれであっても、約束は、破られることがないとは言えない、むしろ破られるから、約束をする必要があるとも言えるのです。
 よって、破られた約束(不正だと感じ、怒りが起きている場合)は、そうなるべくして、なっているのですから、怒る必要すら無いのかも知れません。
 
 
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by nichinichiso | 2015-04-16 20:50 | 心理的背景
file656 最初から、うまく出来るはずがない、件(完璧主義)について
file656 最初から、うまく出来るはずがない、件(完璧主義)について

 自分が不快な緊張や、不安という感情、を引き起こすような場面に面した場合、その時、何を考えているのでしょうか?
 自分が、先日、短いプレゼンをする機会があり、その時にいつものことなんですが「外から見てもわからない」けれども「自分的には、緊張し、不快に思って」プレゼンをしている状況になりました。
 声がうわずったり、足下が浮き足立ってくる感覚が、開始2分後くらいからしてきます。ただ、これは、内面的な自覚であり、外からは、わからないのです。むしろ、よく出来ているようです。

 上記プレゼンは、全くはじめてのことでした。
 いつも、人前で話すときは、上記のような内面的に自覚する緊張感があります。
 これは不快です。
 この部分を自分の成長の糧とするには、どのような思考が、有効かを考えてみます。


1 まず、「最初から、うまく出来るはずがない」という、態度です。
 ある程度知らない人、ある程度知っている人、全く知らない人の前で話をする時を想像してみると、仲のいい人と話すより、緊張するのは、「当然」のことだと思います。

 しかし、そのあまり知らない人たちの前で、新しいことを伝えたり、反論したり、質問されたりしたときに、完璧に、その時間10-60分間を美しく、華麗に話し、応答し、思考を巡らし、過ごせる、そして、安心に覆われているという自分は、現実にあるのでしょうか?

 それが「ある」と考えていたら、それは、苦痛を引き起こす態度です。
 
 はじめてやるプレゼンなり、議論、指示なりで、その適度な時間を、適度に流して、自分の言いたいことをある程度伝えられて、相手の言っていることを半分ぐらい理解できて、思考も、いつもの半分ぐらい回れば、それで、何か問題があるのでしょうか?

 終わった後に、こうすればよかった、と悩むこと、逡巡することもあると思います。
 しかし、それは、実はプレゼンが、「不完全」だったからです。

 そして、その「不完全が故に、正しい」プレゼンだったんだと思います。

 なぜなら、一連の流れの中で、自分の不足していた部分、力量、応答、伝え方の「欠点」が浮き上がってくるという課題設定が、次に出来るからです。

 もし、完全に出来てしまったら、何も、今後何ももうやることはないでしょう。課題もなければ、緊張もない、誰もが相づちを打ち、すべての人が正解と評価し、自分も完璧だと思っている出来事というのは、客観的にみて、不自然さが残ります。
 むしろ、より多くの改善点が見つかる方が、「失敗」と感じるぐらいの方が、実は、クリアしがいのある課題なんです。

 そう考えると、完璧さを求めることは、自分の成長を止める(望まない)態度とも言えます。

 冒頭の・「最初から、うまく出来るはずがない」という態度は、不完全さを前提としています。


2  では、もし同じようなプレゼンを、「次回」やることがあったとき、その時は完全に出来るでしょうか?

 NO です。

 なぜなら、場所屋は同じでも、やることが同じでも、聞く人が違ったり、聞く人の体調が違ったり、自分の体調の違い、寝不足の有無、仕事量増減、薬の状態、抑うつの程度もすべて違います。
 より前回を受けて、改善点について、改良は出来ますが、自分のみならず、相手の状況、環境の状況も実は大きく異なっています。
 それは、実は、同じように見えて同じことをやっているとはいえません。

 ですから、完璧にやることは出来ないのです。

 やはり、そこでは、自分の課題を洗い出すことが成果となって出てきます、失敗するぐらいでもちょうどいいのです。(不完全さ)

3 さらに考えていくと、今日できたことは、明日出来て当然なのでしょうか?
 
 →  NOとなります。
どんな小さなこと、コップ一つ洗う、同じ通勤経路、同じ風景、似見える場所を歩く、散歩した道も、すべて自体は刻々と変わっていますので、「人は、何かしら違う状況に直面している生き物」なんだと、思います。それが、生きている上で、前提として厳然たる事実として未来に広がっているように、私は思います。

そういう意味では、完璧さというのは、「すべき」という思考に支えられていますが、幻想なんだと思います。
 それを、ご自身が暗黙の仮定としているときは、掘り出す必要があります。そして、難しいことではないことから、不完全さに満ちていることを観察していくことは重要だと思います。

 不完全だから、いろんなことの「ずれが見え」てきて、おもしろさや、課題や、努力や、意欲がわいてくるんだと思います。


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by nichinichiso | 2015-03-13 18:34 | 心理的背景
file630 権威者への対応Ⅱ 反対する権利と承認欲求を知る
file630 権威者への対応Ⅱ 反対する権利と承認欲求を知る

http://nichinici.exblog.jp/22727891/

で権威者への対応を書きました。

 自分の中で、これが、どういう自尊心のあり方が問題なのか、再考してみました。
 二つのことがわかりました。


1 反対する権利【反対の権利保持】
2 承認欲求の高さ【承認中毒】

自分より目上の者、知識を有するらしきもの、権力を持つ人、資格を持つ人、家族に恵まれている人、有能な人、実績のある人、売り上げの高い人、経験の多い人、恵まれている人、恵まれない人、かわいそうな人、うらやましい人、かっこいい人、たくさんの日本人がいます。
 上記のような人の前で、自分が、不安や、思考の歪み、を持つことは、一つは、自分が「どんな人に対しても、意見等に反対する権利を持っている」ことを忘れていることに気づきました。
 「反対する権利」をどこかに、置き忘れてしまっていると、どうなるでしょう?
  辛いです。何か、自分の希望が、その人の前では「間違っていること」と自分で思いがちです。自分の感覚が「間違っている」、自分の意見、自分の体験、自分の記憶、自分の考察、観察結果、が「常に知識人」の前では、「間違っている」と自分で自分にいわざるをなくなり、葛藤が生じます。」これでは、まともに適正な対人関係が維持できません。なぜなら、どこに行っても、自分より優れた側面を持っている人は、たくさんいるからです。

  自分が完璧でないのと同様、どんな資格を持とうが、知識を持とうが、完璧な他人もいないのです。ですから、「本当かな?」と疑うことは、正常なことです。
 自分の希望を、何でも聞き入れる義務が、他人にあるわけではないので、【他人も反対の権利を持ってます】一致しないことも多いでしょうが、そういうことを知っていれば、ぶつかることも怖くないわけです。 反対する権利を持つもの同士の、仁義「ある」戦いがいろんなところで繰り広げられているだけのことです。

つぎに、2承認欲求ですが。これは、バーンズ先生の本でも詳しく語られているので参考になります。じぶんが、「承認を受けて初めて、生きごごちがする」という、やっかいな状態が起きます。

 たとえば、仕事で、また治療で、自分のアイデアが採用されない、採用されなかったら、自分は、惨めだ、だから、アイデアを出さない。また、出した後、事後的に、そのことで、気持ちが乱れる(あんな提案、しなきゃよかった)(あんな記事書くべきではなかったのだ)と、なってしまいます。また、承認を得られないことで、「不正だ」と思って、怒りを覚えることもあったりします。

 これって、すごく、一人相撲ですよね。
 「他者に認められて、初めて、生きごごちがする」広い世の中で、そんな合う人合う人、関連性を持つ人々すべてに、自分の行動を認めてもらい、かつ、表現してもらって、かつ、自分にそのメッセージを丁寧に届けてもらえると、初めてその日一日が満足です。という、暗黙の仮定を持っていると、苦しくなります。

 もし、自分のことを承認していても、そのことが、時間的、空間的、物質的な問題で、伝わらなかっただけなのに、承認されてない→俺/私は辛い、となってしまったら、それは、どんな人でも、うつ病になります。
 計り知れない、承認のための、人としての生命活動が延々と続きます。これは、具合が悪いと私は思います。
 みんなが、このような思考、欲求を持っていたら、あまりの、承認活動という生命活動の労力の多さに、世の中とか、組織の中で、どんな人も生きていけないし、組織や、人間らしい社会自体が成り立たなくなるからです。
 ですから、通常、そういう承認がなくても、極端な感情の変化も起きず、粛々と、人は生きているのではないでしょうか?。

 




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by nichinichiso | 2015-01-17 19:16 | 心理的背景
file628 自分自身の気分障害に関わる(権威者への対応)

file628 自分自身の気分障害に関わる(権威者への対応)


 権威ある者と対峙したとき、私はとても不安になります。
 権威ある者は、私にはない特殊専門知識、優れた学歴、経歴、私より広い世界観、私より高い収入、私より優れた記憶力、私よりよく知っている精神医学、豊かな人間関係、豊かな生活、高い車に乗り、認知も正常で、世界旅行も難なくこなす体力を持ち、週末の休日も充実し、オンとオフの切り替えに長け、華麗な毎日を送って、不安などみじんもなく、不安対処能力も極めて高く、生まれ持った素質がものをいい、IQも若干高く、睡眠時間も短くても苦にならず、元々持った体力が私より高い、彼の趣味の書道が、最近何かの展覧会で賞を取ったみたいである

 気分障害なり、低血糖なり、副腎疲労なり、なんなりになると、いろんな医者、カウンセラー、家族療法研究家、ヒーラー、研究者、その人たちの著書、ネット情報…に、囲まれます。

 そのとき、自分が上記のような、フィルターを持って人を見ていると、自分が、安く見られるのではないか、また、従わなくては、罰を受けるのではないか、その人の提案していることは絶対で、データの解釈も正しく、何より、自分より健康に生きているという事実が、自分より優れている証拠であると、決めつけることが多いです。【すべき・決めつけ・全か無・飛躍】

 こう思って自分を治しに治療場所の門をくぐると、緊張して、自分が惨めになります。
 
 そこまで思っていないでしょうか?

 医者も人間、カウンセラーも人間、研究者も、宗教家も、ヒーラーも人間です。ただ、気分障害になっていない、ただそれだけなのではないでしょうか?言い換えれば、気分障害の医者、カウンセラー、研究者、宗教家、ヒーラーだっているかもしれません。

 その人たちの認知は、権威を持たぬ者の認知と同様の問題を抱えていると言えます。


 私は、いつからか、このような傾向を持つようになりました。友人や、隣人が私を常識人と呼んでいた頃から、唯一私自身が、自分をおとしめるような非常識な思考で、権威者に合わせて考えようとしていました。
 じぶんなりの、問題意識を明確にして【なぜ、炭水化物を抜いているのに、夕方、低血糖と〔らしき症状〕が起きるのか?】、失敗しても恥ずかしくないから、自分の責任で自分の道を一歩でいいから歩いてみようと思わなくなっていたようです。

 最近は、やっと、うつ病の怖さ、を知ることができるようになりました。そした、じょじょにですが、自分の力で、気分を変えられることがわかってきました。
 ある出来事に遭遇して、びっくりしてもいいんです。 驚いても、失敗しても、恥ずかしく思ってもいいのではないのですか?

 ただ、それをむやみに、極端な解釈しすぎると【歪んだ認知】と、本来問題解決の場と自己の成長のチャンス、適応のチャンス、人間の深みを持つチャンス、をみすみす逃してしまいます。

 自分の「一瞬の感情の揺らぎ」を知るには、瞑想が役に立つと感じることが多いです。【マインドフルネスの瞑想】


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by nichinichiso | 2015-01-14 17:07 | 心理的背景
file 618 完璧主義で苦しむ場合の一つの仮定:生活の減点法(私見)
file 618 完璧主義で苦しむ場合の一つの仮定:生活の減点法(私見)

 完璧主義は「いやな気分よさようなら」の中でも、かなりページを割いて解説されています。
 自分自身は、とても完璧主義で悩まされています。

 その不合理さは、どこにあるのか、どうしたら打ち砕くことができるのかは、本に書いてあります。

 私が、個人的に、思いつく理由は以下になります。

 例えば、「ブログをやるには、いい文章でなければならない(すべき思考)」 「コップを洗うからには、ピカピカに洗わねばならぬ」「仕事をするには、正社員でなければならない」「芋ほり体験したら、他人よりうまく掘らねばならない」と思って、うまくいった気がしないと、その出来高にかかわらず、不満足感が生じるでしょう。

 完璧主義というのは、いわば、100点満点という、自分の中だけの、試験を自分に課すことで、何か、至らない点、へました点、うまくいかなかった点を減点していくしていく、「減点法」という、小学校以来、嫌というほど体験してきた、試験制度を、生活の中に応用していることなんだと思います。

 その生活感情のルールは、誰が決めたわけでも、書いてあるわけでも、ありません。どこかで、そういうことを学んで、感情生活の基礎として採用してるのだと思います。

 しかし、実は、生活上必要なこと、起きる問題、優雅な人間関係、すてきな人柄、飽くなき承認、愛情、友人の数、人気、親切さ、正義、幸福度などなどに、100点満点(完璧)という概念は、なじまないのです
 むしろ、加点法のほうの法が、なじむと思います。 いくつ今日は(半日は)は、自分に価値ある感情体験、をして、小さな満足を「上乗せできたか」という発想です。 
 コップを洗えて満足できれば、加点。 本を一ページ読んで、いい出会いがあれば加点。瞑想できてよかったら加点。ストレッチして、少し気持ちよかったら、また加点。 薬飲んで、寝られたら、薬飲まずに寝られないより、加点。どんどん、心身衛生上いいことは加点していきます。
 それは、100点から引く(減点法)より、今日は15点、今日は50点、今日は105点、次は150点と、目標は1000点工夫次第で、伸ばせます。150点の翌日30点でも、30点取れていることは、積み上げたことですから、悪いことでも何でもないし、恥ずかしいことでもないのです。それが、その日の、自分のベストスコアだっただけのことです。
 
 結局、人生での減点法の欠点は、
「何歳まで生きるかわからない」ということが、私の考えです。
 
 何歳まで生きることができたら、完璧(100点)なんでしょうか? 平均寿命でしょうか? 上昇志向の強い人は、プラス20歳ぐらい、野望が強い人は、100歳超え、 生きる価値はあまりにもないから25歳ぐらいが寿命と考え、それを100点とするのがいいのでしょうか?
 いくら考えても、わからないことだと思います。寿命がわからないのに、完璧を求めることは、難しいことだと思います。
 であれば、「いくら考えても、何歳まで生きるかわからない、とりあえずその間は、加点をしていくことで、いいときも悪いときも、自分を大切に生きていこう」という考え方のほうが、毎日100点を目指して、減点されて、傷ついて生きていくより、惨めな思いはしなくてすむように思います。

 そうなりたいものです。


 
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by nichinichiso | 2015-01-06 06:34 | 心理的背景
file617 自分が決めるということ(コップを洗う)
file617 自分が決めるということ(コップを洗う)

 Dバーンズ先生の本の中には、行動活性法として、とても小さな作業に対して、しっかりとした尊重する態度をとることの重要性が書いてあります。

例えば、使用されているコップがあれば、そのコップを一つだけ洗って、水滴をふき取ってみる。
 A →こんなことしても意味がない、いつもやっている当然の行為である。主婦だからできて当たり前、やって当たり前。大人なら出来て当たり前、当然。日本人なら当たり前にできる。人間として当たり前にできる。と考える

→こう考えることで、またコップを洗ってみる気持ちは、萎えます。(自己を卑下しがちな考え方)

 B コップを洗うことで、「次回、清潔な飲み口で、清潔な水を飲む、飲料を注ぐことができる準備ができた」「それを行ったのは、隣の人でも、なく、親でもなく、子でもなく、知人でもなく自分自身である。」

→こう考えることで、 コップを洗うことが、Aの考え方より、とても尊重した気持ちになり、すがすがしい気持ちになりやすいです。(自己を尊重)

コップひとつで、大げさな、と思うかもしれませんが、これを実際、1回でいいので実行して、その評価を両方「紙に書き出してみる」作業を実際にしてみると、自分の気分が変わることを実感できました。

こんな単純なことでも、これだけの違いがあるのです。毎日、小さなことをやっているときに、常に、自分を卑下するような考え方で臨んでいたら、それは、非生産的と判断せざるを得ない、下地を作り上げるに必要十分です。
日の何かしらの活動を、やればやるほど、自己卑下度は上がる一方で、最終的には、その苦痛感から、コップひとつ洗うのも「無理」となってしまうと思いやすいです。

 反面、Bのように、些細なことに、自分自身の主体性と、それ以上に、行為の有用性を見つけ出すことは、日常活動を徐々に高めていくときのコツです。そして、自分の行為に有用性を見出すのは、こじつけに思えたり、ばかばかしいと思えるかもしれませんが、実際に書いたりして、見直すと、卑下するよりは、意味がありそうだと思えることが多いです。

AとBの違いはどこから来るかというと、最終的には、自分自身のの決定だと思います。
AおよびB どちらの解釈も間違いではないと思います。
自分が、どちらを選択するか、自分の思考に対する、自分の態度です。(自動思考)


 そして、自動思考というのは、こんな簡単なところに潜んでいるということを、私自身なかなか気づきませんでした。
 それぐらい、自分と、自分の思考は不即不離の関係になっているのです。
 だから、自分の思考に対する、センサーは、感度を上げる必要があります。練習が必要です。
 
 しかし、難しい練習ではありません。小学生の中学年くらいからでもできるようなことだと思います。でも意識しないと熟練しません。
 そのためには、小さなことを、プロトタイプとしてやってみることが重要なんだと思います。

 そして、気分の違い。変動が感じられること、小さな変化を体感することがとても貴重なことです。


 ローマは一日にしてならず、といったところでしょうか。



〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

ちなみに、自分でこの記事を書いて、だれが読むかもわからず、それでも書こうと決めて、不完全でも書き、公開するのにも、私自身が、自分を尊重している態度を選択しようと、心がけています。

私はこの記事を大切だと思っている。私以外に、一人でも良いと思ってもらえれば、それはまた追加でうれしい出来事である。といった感じです。
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by nichinichiso | 2015-01-05 19:53 | 心理的背景