カテゴリ:アダルトチルドレン問題( 7 )
file682 相手に真実を見つける(人間関係の要素1)
file682 相手に真実を見つける(人間関係の要素)

 人の社会に生きる以上、人間関係を改善することは、豊かに生きる知恵だと思うことがあります。
 自分の利益と、その人との関係が相反するときに、私は苦悩します。
 なぜなら、利益を取ろうとすると、自分を痛めつける気がします。反面、関係を破綻させれば、利益が逃げていくように感じるからです。
 仲良くすれば、利益を得られそうだが、それが一番難しい相手だったりします。

 そういう場合、1無関係になる 2 利益を取るがひどく苦しむ 3 ある程度の関係と利益を取る という3つの方法があります。

 いずれの場合でも、まずやることは「相手をよく見ると見えてくる、肯定的真実」を受け入れル用に、私は努力しています。。

 これは、どんな相手でも、それなりの理由があって、いろんな活動をしているのですから、それほど難しいことではありません。
 しかし、難しく感じるのは、それ以外の問題のあるところを、勘定に入れてしまうからではないかと思います。。
 Aという点で優れているが、BCDEFでは、無能だ。と思えば、全体として、無能な人と評価せざるを得ません。
 「Aという点で優れている、それで、十分である」と捉えることにとどめます。

 そうすることで、次に自分が、それでいて、自分がどうするかを決めることが出来るように私はなりやすいです。
 

 結局、自分の考え方が、自分の行動に影響する一例だと思います。。

 基本的に、その人が、どう優れているか、無能なのかと言うことは、自分の人生とは無関係だと、私は考えます。
 自分がその人の能力や、人間性を作ったわけでも、関与したわけでもない。
 たまたま同じテーブルに同席した、図書館の隣人みたいなものです。

 そういう視点を持てること自体が、非常に、高度な意識を持つことであって、人間を大切にし、人間関係を良好に使用とする努力する態度ではないでしょうか?
 たいてい、そういう場合、ご自身が最終的には、いろんな人から信頼され、利益をもたらすように思います。。

 ですから、人間関係を総合的に高めたかったら、苦手な人にこそ、肯定的な真実を見つけ、関与できるのであれば、一つぐらいは、期間限定でも、いい人間関係になる工夫をしてみるのはどうでしょうか?。
〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

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by nichinichiso | 2015-04-24 20:19 | アダルトチルドレン問題
file676 アダルトチルドレンは有益だろうか?(レッテル貼りのリスク)
file676 アダルトチルドレンは有益だろうか?(レッテル貼りのリスク)

 アダルトチルドレンという言葉を知ったのは、もうだいぶ前です。
 アルコール依存症の親に育てられると、かなり、なってしまうようです。どっかには日本人の6割はそうだ、と書いてありました。
 こういうこととを知らなければ、特段、根深い思考の混乱を起こさない気もするのです。なぜなら、「私はアダルトチルドレンだ」と思うと、その言葉の持つ、「レッテルの力」に圧倒されてしまうからです。
 非常に、やっかいでもあります。
 専門家が、物事を整理して、解決して行くには、有意義なのかも知れませんが。当事者としては、何かがわかってほっとする反面、その言葉の持つ根深いやっかいさを教わることになり、自分は、およそ普通の人ではない。自分で自分のレッテルを貼る可能性もあると思います。

 実は、アルコール依存症の親に育てられた人のすべてが、精神生活上、トラブルを抱えているわけではないのです。
 言い換えれば、依存症の親でない親に育てられた人でも、あたかも、ACが持つような精神生活上のトラブルを抱える人もいるのです。
 
 だから、あんまりそういうこととは密接には関係が無く、むしろ、自分の「現在の心境」と「過去の体験」は無関係であると考える方が、気が楽になりました。
  なぜなら、過去に起きた記憶の中の出来事は、確認、修正が難しいですが、「現在考えているその思考に気づき→変え」、「感情を変え」て、「行動を変え」ていく方が、遙かに容易だからです
 
 過去の体験の再意味づけというのは、言うほど簡単なことではありません。
 気分障害を自覚して、認知の歪みをかなり修正できると自覚できてきても、過去を評価し直すのは、出来ないことではないのですが(あれはあれで、自分のためになった、酒飲み家族だったのだという評価が心の底から出来る瞬間がありますが)、かなり労力を使うと、私は思います。(一体験ですが)

 また、酒を飲んで荒くれていたものに対するレッテルも、いい点を見落とすという意味で、自分に不利益をもたらします。
 どんなに、悪い人でも、完全な悪人はいないのです。自分からみていい点が、悪いところは100あり、いい点は1つも見つからなくても、他人には、「いい酒飲み仲間だ」として受け入れていれば、それは、残念ながら自分とは関係ないが、その人のいい点だと思います。

 レッテル貼りというのは、一般的には自分は「負け組だ」「駄目だ」「無価値だ」「失敗者だ」という一般化の極端な形をとります。
 言葉が怖いのは、抽象化された言葉が、あたかも、自分のすべてを説明しているかのように思わせる点にあります。

 ですから、現実的で、具体的な、思考と体験をリラックスしながら、楽しみながら行い、時に失敗、挫折し、それも人生の味わいだと受け止め、友達や支援者と笑い飛ばしながら、自分の才能や、価値を見いだしていくことが、非常に重要だと思います。

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by nichinichiso | 2015-04-18 20:29 | アダルトチルドレン問題
file664 物差しの所在(標準・基準・価値)
file664 物差しの所在(標準・基準・価値)


 人は、物差しをもって、世界や自分を評価し続けて生きていく存在です。
 その物差しは、自分内面から生じた物差しでしょうか?
 ものさしの、良さ、悪さ、以前に、それが、自分のものさしか、他人のものさしを自分のものと勘違いしているに過ぎないものさしなのかを明らかにすることは、有意義です。

 なぜなら、他人のものさしは、最終的には、自分になじまないからです。
 他人のものさしを参考に、自分のものさしを磨き上げることは、とても重要なことですが。「あの人がこう言った(こう思っている、大切にしている価値観がある)から、そうなんだろう、だから従おう」という発想は、自分を追い込む発想だと思います。

 なぜなら、 人は、他人とは同じ環境にいても、みているものも違えば、感じていることも違う、持っている知識も、経験も、その人の性格も違うし、ましてや、環境に違いがある場合は、もっとそのことは当然のように感じるのではないでしょうか?

 法律の勉強をした人と、数学の勉強をした人と、料理の勉強をした人と、福祉の勉強をした人と、大工の勉強をした人は、それだけで、ものの見方はちがってきます。

 そうなると、生まれた場所、時代、生育歴が違えば、またこれも異なります。


 各人は、そのものさし(標準・基準・価値観)を自分なりに作り上げている存在です。
 そして、それはもちろん、独善的であることとは違います。
 社会の中で、また、自然の中で生きている以上、周りの環境に合わせて生きていくことが求められますが、その時、自分の物差しでは測りきれない事態に遭遇します。
 また、上下関係や、場の雰囲気から、その物差しを一時的に無視することも必要となるでしょう。(自分はそう思っていないが、上司の言うことだから、特段反対もしないでおこう…。)

 でも、それは、現実的な「判断」であり、自分のものさしをもっているから、「現実的一時的判断」が出来るのではないでしょうか?

 もし、他人の言うこと、影響力のある人の標準が、自分のものさしより優れているから、自分はその人に従うべきだ、とこころのどこかで思っていたら、それは、学びではなくて、強制を受け入れていることです。

 現実的な判断と、強制の受け入れは、明確に区別する必要があります。

 なぜなら、混乱するからです。
 区別できていればその場をしのぐことが出来ます。その時期をしのぎつつ、自分の世界を伸ばすことも出来、また、周りとの関係も平和です。

 自分の持つものさし(標準・基準・価値)が、自分の集めた情報の成果であれば、それは、結局失敗しても、立ち直るのはたやすいです。なぜなら、他人を責める必要も無く、また、自分を責める必要も無いからです。
 特に、前者は大切です。他人を責める必要があると感じると、そちらに力を奪われてしまいます。

 ですから、今現在の自分のもっているものさし(標準・基準・価値)が、自分由来のものか、他人に知らずのうちに強制されているかを区別しておくことは、自分の判断に責任を持てる第一歩だと思うのです。
 ちなみに、他人に影響を受けることは、とても自然なことだし、人の円を大切にする態度です。それを自分のものとすることも、有意義な人間の営みです。 そこには、自分でで採用しているという、基準がすでにあるからです。そういう感覚が無い場合は「強制、押しつけという不快な気分をどことなく伴っていることが多いです。
 特に、社会というものについての判断が未熟な、少年、青年期の他人の影響は大きいものがあります

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by nichinichiso | 2015-04-06 06:23 | アダルトチルドレン問題
file584 知識経験なくして、問題解決の困難さ(幼少時の家族問題等)
file584 知識経験なくして、問題解決の困難さ(幼少時の家族問題等)

最近は、「楽しいことをやる」「熱中することをやる」「病気を治そうと気張らない」というテーマで、生活するよう気をつけています。(それでも、すぐにそのようにはできないところが、難しいのですが・・・)

そのような生活を続けていると、高校生時代から始まった、家庭内での過去の自分の闇雲な努力とか、負担感というものが、見えてきたりしました。

簡単に整理すると以下のようになります。

私の家には、不登校児や、引きこもりの兄弟が多かった。そのことを、当時高校生だった私が、何とかしようといろいろがんばったりしていた。
また、両親間の不和があり、母親の愚痴の聞き役、父の問題行動の解決をするためのアイデアを考えたりしていました。

高校生時代ぐらいから、27歳ぐらいまで常に家にあった問題です。
自宅、家族とは、そのような問題をもたらす場所だったのです。

それで、自分が苦労したのは、なぜなのかと考えると、それは、「家族問題、登校拒否問題を何の知識も経験も、学習もなく、徒手空拳で望んでいたからである」と考えるようになりました。

家族問題は、家族問題の専門家にとりあえず任せて、自分の学校生活を大切にする。
父の問題、これも、その専門家に任せて、自分の生活を大切にする。


知識、経験、学習なく上記問題を解決しようとしても、効率が悪く、結果が出せず、消耗ばかりしていき、自我形成の重要時期に、自分の道を見失ったり、自分というものを考える暇すら与えてもらえなったりすることにつながりかねないものだと感じます。

それに気付いたのは、最近、楽器を習い始めたのですが、人からものを学ぶということが、非常に「楽で、気軽で、かつ、進歩が見られる」だから、楽しさもある、という体験を何度か繰り返したからです。

私の扱っていた、家族問題というのは、15歳ぐらいの自分にとっては、「楽ではなく、気が重く、かつ解決の糸口が見られない」そして、疲れる、という体験だったと思いました。

アダルトチルドレン問題の一角に気付いたような瞬間でした。

「知識、経験、学習なくして、問題解決は、徒手空拳で望むに等しく、ストレスがかかる。」そのようなものは、避けるのが、病気治療中には特に大切だとも感じます。
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by nichinichiso | 2010-01-25 08:25 | アダルトチルドレン問題
file550 極限で生き残ることから、病気治癒を目指すヒントを得る(読書感想)
file550 極限で生き残ることから、病気治癒を目指すヒントを得る(読書感想)


『生と死の境で生き残る人、命を失う人』広瀬弘忠/著  講談社


という本があります。

この本は、大事故や、大災害、ほぼ9割以上の人がなくなるような災いが起きた場合に、その中で生き残った人の事例や、生存者の行為、行動、体験談、証言、そして、それらに対する災害心理学を専門とする著書の分析がのっています。

アダルトチルドレンという言葉を聞いたことがある方もいるかもしれません。この本はそのことに触れた本ではありませんが、非常に参考になることがかいてありました。

自分がうつ病なり、低血糖症なり、とにかく、生物的に危うい事態が続いているということは,危機的なの状態にあります。(今、糖質しか食べられなくなったら、今、パキシルが手に入らなくなったら、今睡眠薬が手に入らなくなったら、真っ先に苦しむのは、横の他人ではなく、自分であることは明らかです。)

そういう中で、まず、自分の病気を治すと言うことは、誰でも真っ先に考えることであり、あたりまえのことと言えるかもしれません。

ところが、いろいろな心理的要因や、環境の中では、病人の自分を差し置いて、ちょっと調子の悪い他人(親族含む)のためにエネルギーを使おうとする場合があります。私も、その傾向が強いです。

そういう態度事態が、実はあたりまえのことでなく、非常に生き残る(私の場合は、病気を治す、という緊急性の高いこと)に対して、悪い方向に物事を進める場合があることを知るのに良い本です。

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図書館で借りて、もう手放してしまったので、詳細には紹介できませんが、いくつか印象的なことを羅列します。

1 家族というシェルターは、上手く機能している場合には、その構成員を守る。反面、シェルターとしての役割が崩壊した場合、家族内での、個々人の生き残り(兄弟間、親子間、両親間)サバイバルがあっても当然である。

2 勇敢さを、匹夫の勇と混同してはならない。(自分を強く見せるための勇敢さが、命を失う場合がある)

3 極限を乗り越えて、サバイバルに成功したものが、平和な日常で苦しむ場合が少なからずある(例PTSD・自殺)

4 社会的な生存と、生物的な生存の2面から生存を考えた場合に、危機的な場合に、前者と後者のいずれを優先するかと言う判断に迫られることが多い。(決闘という文化は、命をかけて、社会的な生存価値を高める営みであり、生物的に強かったものが、社会的地位を一段あげることができた)


5 恐怖に対する閾値(どれくらいで危険と感じるか)が高すぎても低すぎても、生活を困難にする。高すぎる場合には、電車にのるのも恐怖になる。低すぎると、あまりにもリスクが高かいことに容易に手を出す、差し迫った危険に対応する迅速さがかける)


6 この本で扱われている極限状態とは、
青函連絡船洞爺丸の沈没
関東大震災
阪神大震災
HIV
「たか」号の遭難
バルト海での遭難
潜水艦の浮上不能
航空機の事故
アイスマンの発見

....など多数。

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参考図書:

書名   :生と死の境で生き残る人、命を失う人
著者名  :広瀬弘忠/著
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by nichinichiso | 2008-07-19 17:10 | アダルトチルドレン問題
file 404 人生がめちゃくちゃに破壊された場合がある
file 404 人生がめちゃくちゃに破壊された場合がある

先日、私は、5年来の付き合いのあるカウンセラーと、面接することがありました。
もちろん、クライアント(患者)としてです。

そこで、このブログに書くようなことも含めて、話をしてきました。

その面接の中で、「人生をめちゃくちゃに破壊された人」がいるということが話題になりました。

それは、私の数年来の疑問に端を発しました。

その疑問の趣旨は、以下です。
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私は、アダルトチルドレンに関する本や、その方面で有名な方の著書などを読むと、非常に共感できることが多くて、私自身が、アダルトチルドレンなんだなあと思っていました。

そして、その対処としては、同様にACと自覚される方々の集まりに出席して、話をしたり、話を聞いたりすることが有用であると、その方面では言われている。

しかし、私は、ACだと自覚できる気がしても、どうしてもそのような場に出席する気にならなかった。
そのような場を探したり、著書の方の話を聴きに足を運んだことはあったが、どうも、そのようなAC同士の会合に出席する気になれなかったのです。(1回だけ、うつ病になる前に、自助グループのようなものに参加したことがありますが)

それが、非常に不思議であり、また、「治る気がないんじゃないか?」という、自分への不信感にもなっていました。

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というものです。

それに対して、

面接者は、「人生をめちゃくちゃに破壊された程度が異なる場合がある」という話をされました。

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私は、自分の生家に、ひとつもいい思い出がなく、それどころか、怒りさえ覚えます。
それは、一言で言えば「軽く無視されて育った」からです。
理由はわかりませんが、私自身、このフレーズが、私の生家での記憶を表すのにふさわしいと感じます。


-------------------------
ところがです。

それ以上に、劣悪な生育環境と思われるような事情は、もっとあるようです。

私の体験した生家での出来事には、親族間の性的な被害とか、は含まれません。少なくとも、私はそうでした。

ところが、上記のような被害・事件が起きるような家族に象徴される家族の中では、、およそ、存在を認められず、尊重されず、承認を得られない「他者に人生をめちゃくちゃに破壊された被害者」がいらっしゃるようです。

そのような場合には、私が、報告しているような「うつ病対策」では、役に立たないかもしれないなあと思いました。

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この記事で、何を私が主張したいかというと、生まれ育った,生家での環境を再確認することで、対処の方法が異なってくるということです。

判断をあえて単純にするために、3つのパターンに分けてみました。

1 家族の中で尊重されたという自覚があるが、うつ病になった。
2 家族の中で無視されたという自覚があり、うつ病になった。
3 家族の中で虐げられてきたという自覚があり、うつ病になった。


家族というのを、生まれ育つ間の人間関係や、環境と言い換えた方がいいかもしれません。

1はそれほど根が深くない、うつ病のように思えます。
2は私と同程度に、根が深いうつ病のように思えます。
3は非常に根が深いうつ病のように思えます。

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私が、もしうつ病が治ったと宣言できた場合に、その対象としているのは、1・2の場合に限定される可能性が強いと感じました。

関連記事:
軽く無視されて育つ危険性 051106 http://nichinici.exblog.jp/1753322/
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by nichinichiso | 2006-05-22 20:12 | アダルトチルドレン問題
アダルトチルドレン問題について
アダルトチルドレンという言葉は、特定の生育環境に由来すると思われる、過去から現在における心理状態、それに伴う振る舞いを整理した言葉だと思っています。

すなわち、そのような心理状態と、それに伴う行動で、主観的に困っている人をACと類型化するのです。

ですから、主観的に困っていなければ、AC的人がいても、特に類型化してあげる必要もありません。
むしろ、困るどころか、それで社会的成功をおさめている人すらいるでしょう(内面の充実感はともかく)。

私がいつも、その関係の本を読んで思うことは、ACという言葉は、自分に問題を発覚させ、自覚するいい言葉だが、それを知っただけでは何も変わらない。むしろ、その言葉や、本に影響されて、あれもこれも、すべてAC 概念に結びつけるという、危険な心理状態を作るのではないかとすら思います。

つまり、AC概念は「問題解決の入り口」という役割を持つ言葉なのだろうなと思います。
その後の、具体的問題解決には、むしろAC 議論から離れて見ることも大切なのではないかなあと思うことがよくあります。

私は、AC 概念で言えば、ヒーローになるでしょう。そして、ヒーロー故のがんばりで、うつ病になったということになります。
ヒーローと類型化していただくこと、自覚することはいいのですが。どうしたら、そのそこにある心理を変えられるかが問題なのだと思うのです。

そのようにカウンセラーと議論していたあと、斉藤学氏のカウンセリングを拝聴することができました。その中のコメントでも、「アダルトチルドレンという言葉」の持つ意味、時代とあっているかという彼の問題意識が感じられました。

アダルトチルドレン議論については、さまざま本が出ています。興味があれば、読んでみると面白いかもしれません。
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by nichinichiso | 2005-11-03 21:37 | アダルトチルドレン問題