file 600 ネット上でのコミュニケーションと言葉(次回カウンセリングで)
ネット上で、実在しているが、実際にあったことのない人物とコミュニケーションをとるときと、実際に過去に、部活やら、学生時代やら、サークルやらで共有体験がある人物と比較して、私が感じたことをかきます。 私の場合、初めて、ツイッターというもので、私の中では、密にネット上でコミュニケーションを1月ほどやってきました。このブログ以外、チャットとかもやったことがなかったので。初めての体験でした。 ツイッター上では、1回140文字という制限の中、『言葉の選択』『言葉の重要性』というものに、非常に、気を使うことが特徴的でした。また、それゆえに、私から見て言葉の使い方が上手いと思う方、私と同じような言語感覚を持つ人、また単発だが霊のこもった感じの言葉を、を使う人とは、とても気が合う感じがしました。 また、実際にお会いしたことがないゆえか、自分の性格ゆえなのか、病状ゆえなか不明ですが、 相手を知ろうとおもえば思うほど、コミュニケーション頻度や、その内容の多様性が増大していく傾向がありました。気まぐれにツイートする、疲れたら放り出しておくことが、ストレスに感じるようになりました。そして、疲労感も増えていきました。 ツイッターの特徴は、「ゆるいつながり」にあると、本とかネットには書いてあるのですが、それをうまくいかせなかったです。むしろやり取りのリズムに乗れば乗るほど、密になっていく感覚がありました。 他方、実際に過去のに言葉以外を通じて共有体験がある者(友人であったり、親族の一部《親族関係でも問題人物が多いので》であったり、気が合う仕事場の同僚だったり、先輩であったり)とのコミュニケーションというのは、年に数回であっても、それほど、のめりこむ、疲れたから会わない、疲れてるから、メールの返事が一ヵ月後になるということに、それほど抵抗(ストレス)がないです。それでも、ある意味安心感があります。(返信しなくても良いという安心感) ネット上で使える情報伝達手段が言葉、写真等であり、共有できるものが病状(それも程度の大小はあるも病名も、薬も、症状も、治療期間も、異なるなる)ということである場合、やはり、私の場合、言葉に対する感覚というのは、非常に研ぎ澄まされていく感覚がありました。自分の使う言葉にもそうですし、相手の発する言葉にも敏感になっていきました。 これはある反面、内面的な緊張を生むものだった気がします。 自分の性格上だと思うのですが、最初は楽しく始めたものの、相手と言葉のやり取りが増えれば増えるほど、「いい加減なことがいえない」「適切なことを言わなければならない」「毎日やらなくてはならない」「返信しなくてはならない」・・・・という義務感に縛られている自分がいるのですが、それすら自覚できず、疲ればかりたまっていくという弊害も生じ始めました。 それでも、「心配かけては、相手の病状によくない」という、非常にある意味「妙なポリシー」のようなものさえ生じてきました。 上手くツイッターという仕組みと付き合えている方もたくさんいる中で、自分が疲れてしまったことに、やはりなにかしら問題を感じます。 こういうことを考えていると、自分の他人とのコミュニケーションのあり方というものにも、ある種の問題があるかもしれないと思うようにも感じます。(ここら辺は、カウンセリングで対処してみたいと思います。) ------------------- 追記;そして、そのような義務感をギリギリのところで上手く指摘してくださった鍵コメさんらには、とても感謝しています。
file473 精神的な苦痛概念を自分なりに定義する試み(悪とは何か)
以前、私のブログで、下記の記事を作成しました。これは、下記著を読んでの、ざっとした感想のようなものです。その中で、p307にある『恐怖』というものを考えさせられ、試してみたことがあるので、報告します。 --------------------- file 470 『脳と人間』計見一雄 著を読んで(感想文)http://nichinici.exblog.jp/6059812/上記記事内引用 p307 詳細なイマジネーションは、いきいきとした現在を作る。詳細なイマジネーションを奪うものには、恐怖があげられる。 恐怖の理由のひとつに、苦痛がある。苦痛は、身体的なものと、精神的なものがある。 ----------- この話は、著者が、恐怖というものが、イマジネーションを奪って、現実をつまらなくさせるという趣旨の話をしています。 そして、恐怖は、苦痛に由来し、苦痛は、1身体2精神の2つの角度からやってくるといいます。これは、わかりやすい、整理だと思います。 1 身体苦痛 これは、殴られる,蹴られる、暴力などによって、体が様々に痛むことです。 非常にわかりやすいと思います。「転んだら痛い」、これが身体苦痛だと思います。 2精神苦痛 これは、はじめピンと来ませんでした。しかし、この苦痛感は、あるように思えます。しかもたくさん。 しかし、1の身体苦痛ほど、自分の中で、『精神が痛いぞ、ちきしょう』という感慨を持ったことがないように思えました。 そこで、もう少し、ソフトな表現にしてみました。 「やりたくないけど、やらされた(お稽古事・学習・通学・・・)こと」 と言う問いを設定すると、そのときの、『やりたくない』という自発的な感覚と、『それでもやれ』という外部の強制がからみあって生じる葛藤のようなものが、精神苦痛だと考えてみました。 そこで、過去の自分の歴史の中で、『やりたくないけど、やらされた』『行きたくないけど、行かされた』『やめたいのに、やめさせてくれなかった』という体験があると、それを精神的な苦痛と考えます。 もちろん、外部の強制というのは、言葉だけではなく、その背後にある、強制する力(例:親の言うことは守れ・守らないと、ただではすまないという脅迫)があります。 「殴られるくらいなら、我慢してやった方が、なんとなく嫌だが(これが精神的苦痛なのですが)体が痛くないだけましだという」回路ができてしまう場合があるんだと思います。 -------------------- そう考えると、私自身、精神的な苦痛は、いろいろあった気がします。 そして、上記12の苦痛を与える主体を『悪(あく)』と定義することにしました。 悪とは、身体的精神的に苦痛を与えるものをいいます。 そして、身体的精神的に苦痛を与える人を、悪人と呼びます。 。 もちろん、自然災害や、組織・国家行為、地域の社会のあり方などでも苦痛を感じることがありえます。その場合、自然災害も、国家行為も、地域社会も悪と呼ばれます。 例えば、身体的、精神的に苦痛を与える天候は、悪天候です。 悪には、なるべく近寄らないというのが、基本セオリーと考えるので、何が悪であるかを整理しておくことは、重要なのだと思いました。(今の日本では、自然災害なんかは、万人が味わう可能性を感じます)(国家行為・地域社会だと、海外の紛争地域・戦争がある場合に比べると悪に接する可能性は低いのではないかと思いました。) ちなみに、私にとっての、生みの親は、悪親であると考えを直しました。。 --------------------- まとめ 精神的、肉体的苦痛を感じさせるもの・行為・出来事を、その人なりの悪とよびます。 また、恐怖は、イマジネーションを阻害して、現実を味気なく(つまらなく)する可能性があります。 そして、悪は、恐怖の契機になるので、近づかないようにするといいと思います。
file 451 自尊心とは何か?(私見)
自尊心とは、他人の迷惑にならない範囲で、自分の意見を育てていくことだと思いました。 そのためには、自分が何を好んで、何を嫌うかを知ることが必要です。 そして、好き嫌いを知るためには、自分の五感(自分の持つ感覚のすべて)を大切にすることだと思いました。 疲労していると、感覚は鈍る、また自分の感覚の自覚が鈍くなる傾向があり、また、特定のものにこだわりすぎることになりがちです。 疲れを取ることは、感覚を新鮮にして、自分の意見を持ち、自尊心を持つことにつながるのではないかと、体験的に思いました。 -------------------------- 私の生育環境では、自分の意見を持つことが、非常に難しかったと思いました。それは、両親が抑圧的で、他人の意見を許容できない人物だったからです。
file348 認知療法の新聞記事を読んで
うつ病といわれるものが、別名、気分障害といわれたりするようです。 気分に病的な障害があるというのは、どうも捉えにくいところがあります。 気分が病的でない(障害がない)ということは、どういう状態を言うのでしょうか?。 これは、他人の気分、感情のあり方という他人の内面(精神)世界を感じることが、非常に難しいという、当たり前のことに由来するきがします。 ----------------- 認知療法の新聞記事(2006.12.25朝日新聞・「生活」)を、偶然見ました。 そこでは、認知療法では、「「認知のゆがみ」のパターン」というものが、7つほどあげられていました。 一例:一つの失敗やいやなことだけを理由に「一事が万事と」考える 以下省略 というものでした。 私は、認知療法の本を読んだことはありますが、指導されたり、診療を受けたりしたことはありません。 この記事を読んで、一番気になったのは、「認知のゆがみ」といわれるものです。 認知がゆがんでいるということは、認知がゆがんでいない状態を前提にすると思います。 では、認知がゆがんでいないというのは、どういう状態なのでしょうか?(これは結構難しい問題だと思います) とりあえず、上記の例を引用すると 0 一つの失敗やいやなことだけを理由に「一事が万事と」考える ↓ 1 一つの失敗やいやなことだけを理由に「一事が万事と」考えない もう一歩踏み込むと、とりあえず標語的には 0’ 一つの失敗やいやなことだけを理由に「一事が万事と」考えているフシが自分にはある ↓ 1’ 一つの失敗やいやなことだけを理由に「一事が万事と」考えないぞ ということになります。 ------------- これは、言葉上の違いにすぎませんが、一度心の中で唱えてみると何か、気分が変わるかもしれません。私は、少し気分が変わりました。 私自身は、これは、感情のあり方に対する、アプローチのひとつとしていいと思いました。 しかし、あまり深入りするほどのものではないようにも思いました。(これだけでは解決できないものがあるように思ったということです) 新聞内では、一定の効果が40人規模の治療で見られるとの報告がありました。 なお、下園氏の著書の中では、あまり効果が見られないという報告が多かったということも書かれています。 認知療法は、効く場合と効かない場合があるということではないでしょうか?それ以上は、分かりません。 関連記事: file 344 言葉に振り回されない http://nichinici.exblog.jp/2452902/060112記事 ホッとする言葉を探してみる http://nichinici.exblog.jp/1636580/051028記事
file 408 失敗の定義
私のブログのカテゴリには、当初から、「失敗事例」「成功事例」というものがあります。 これは、病気を患いながらも、病気回復に良さそうなことがあれば、成功。 反対に回復を阻害するようなことがあれば失敗と、単純に体験を分類していこうという、趣旨でした。 うつ病というものにかかってしまうと、およそ何をやっても悪くなるように思えることもあります。(実際そういう時期があると思います)しかし、時々「こりゃいい体験だ」ということもあります。それは、長く患っていればいるほど、対策を工夫すればするほど両者の体験があるかもしれません。 --------------------- 私のブログの中で、「失敗」というものを定義付けるとすれば、以下のようになります。 失敗とは、当面、精神衛生上悪い影響を及ぼす起点となる体験である。 ---------------------- これは、ちょっとしたことで,自分の状況が、悪循環に入っていくことから、その引き金となるような体験を「失敗体験」として、明確にしておこうということです。 ちなみに、「当面」というのは、数日とか、数週間とかです。 ですから、その時失敗と「評価」する体験であっても、ゆくゆくは、何かに生かせる可能性があるという含みを持ちます。そうすると、未来から振り返ると、「あの当時は失敗して苦しかったなあ」ということになります。 「起点」というものがあれば、もちろん、終点も意識しておきたいという含みがあります。 それは、精神衛生が悪くなって、苦しくて、わけが分からないという心身の状況(パニックの状態・下園氏の言う「しがみつきの状態」)を切断して、いい方向に向かうチャンスを予定するものです。その切断体験が、終点です。 *----------------- そして、失敗というものの最も辛いのは、「失敗した」という自分に対する自責の念が生じる場合です。 これは、自分の失敗を許せない、自分は無能だと感じる、自分の手には負えない複雑な問題だと感じる、自分が情けなくてしょうがなくなるという、気持ちを抱く場合だと思います。 これは、私自身、何度も体験しています。 例: せっかく、いい調子だったのに、一回のパチンコで、すべてがパアになった気がする。 せっかく、いい調子だったのに、両親と顔を合わせたら、人生がどうでも良くなるような無力感に襲われる。 あれだけ、安全生活を主張していたのに、いつの間にか、どっぷり危険領域に踏み込んでいた。 すべてが、失敗事例ですし、事件性のあるものです。 そして、すべてに悩み、苦しみという感情が伴います。 ついでに、体の具合も悪くて、寝ても治りません。 その端緒となった体験、「疲れてふらっとパチンコ屋に入ってしまった」「妙に気分が高揚して両親に会ってしまった」などなど・・・。 それらを失敗とよびます。 -------------------- 失敗への事後対処は、非常に重要だと思います。 それらは、別に記事を書いていきたいと思います。 簡単に言えば、 (自分自身に対して) 「失敗してもいいんだよ」「もう一回学びなおせばいいじゃないか」 という言葉を大切にしたいと、思うようになりました。 関連記事 file 365 治る力と阻害する力の想定 060219 http://nichinici.exblog.jp/2795904/ file334 ほっとする言葉(大丈夫だよ) 051219 http://nichinici.exblog.jp/2331809/
file 396 言葉が生きる場面
私が、自分のうつ病の治癒や、その心理的背景について、報告する場合の手段は、日本語という一言語によっています(私自身これしか使えないので)。また、図を利用したりすることもあります。 その理由は、言葉(および図)しか、伝える手段がないからです。 当たり前だと思うかもしれません。 もし、日本語が読めない人が、このページを開いたとしたら、何の意味もないページになると思います。 また、日本語は話せるが、書けない、読めないという場合も、同様だと思います。 では、では、日本語の読み書きができない場合には、うつ病が治らないのかと考えてみると、そうでもないような気がします。 では、日本語が読めると、うつ病が治るかと考えると、治癒回復に役立つかもしれないが、必須ではない気がします。 では、何のために書いているかというと、自分の体験を伝えることができれば、その体験を参照された方が、何かご自身の治癒、回復のきっかけを持つかもしれないと思うからです。 それは、私のブログとか、私の体験だからということではありません。 私自身、他の方のブログを、継続的に読んでいると、印象的な記事があります。また、時系列で、いろんなことをお考えになったり、なさったりしていることがわかります。 そして、その中に、すごくいい体験だという報告だとか、私が良い体験そうだなと思う記事があったりします。 ご本人がなさっている「良い」体験は、私は、したことがないかもしれない(かもしれない)という、意外な発見です。 もし、その体験を今の自分に取り込むことができたら、病気は少しよくなるかもしれないなあと思うことが、あります。 他人のある体験は、自分が追体験する必要もないかもしれないし、する必要があるかもしれません。 それは、判断が難しいところです。 それでも、ブログの数だけ、もっと言えば、うつ病で困っていらっしゃる方の数だけ、そして、治っていく過程にある方の数だけ、文字化された体験が、インターネットには転がっているように思えます。 何が言いたいのかというと、ひとつは、昔は、うつ病で困っていても、それが、他人もそうかもしれないとか、そういう病気かもしれないということすら分からずに亡くなっていった人が、ごろごろいらっしゃったのではないかと思うのです。もちろん、治った方もいらっしゃると思いますが。 しかし、インターネットひとつ、テレビひとつで、うつ病を知る機会が多いということは、少しは、状況的に、治りやすい時代なのかもしれないと思うのです(それでも、私はまだ治っていませんが、死んでもいません)。 そして、、せっかくなのでその恩恵を受けて、治っていきたいものだと、私自身は思っています。 (続くかも) 関連記事: file 361 私の問題意識 060202 http://nichinici.exblog.jp/2648507/←記事内の、問題意識5・10に関連 --------------------- 下園氏の報告によれば、自殺で命を絶つ場合には、その直前にうつ状態にある方が、多いとのことでした。 私の親族にもそのようなことがあったので、もしかしたら、その方は、うつ状態だったのかもしれません。であれば、そのときに抗うつ剤やら、睡眠薬やらを飲むチャンスがあったら、どうだったのだろうと、考えます。 しかし、その方の生きていた時代的のせいなのか、そのような対処はなされませんでした。
先日、 私の作成しているブログ「うつ病の振り返り」について、アンケートをとりました。
1 何らかの価値がご自身にあると思う人は→投票する 2 価値がないと思う人は→投票しない という、単純なものでした。記事はこちら→http://nichinici.exblog.jp/3277000/ 集計結果は以下です 以下は、投票数/閲覧者数を示します。 1日目:5/48 2日目:5/46 3日目:5/39 3日間総計: 16/103 投票割合:15パーセント ------------------------------------------ 解説:このアンケート自体は、ほとんど正確ではないかもしれません。 というのは、検索エンジンなどで、アンケートのページ以外を読んでも、閲覧者1人とカウントされているからです。 とはいえ、一番上の記事を見る場合は多いと思います。私は、他の方のブログを見るときは、ほとんど読みますので、そのように思います。 このブログに価値があると思う人の割合は、15パーセントということでした。 ----------------------------------------- 投票していただいた皆様、ありがとうございました。今後は、面倒だと思うので、特に投票は必要ありません。いつものようになさってください。
file366 「意欲」について
意欲というものは、うつ病時に非常に重視されるものであるようです。 それは、意欲の有無が回復の指標とされているように、医師の診察でも感じるからです。 あるとき医師の診察を受けている中で、「意欲は生じさせるものではなくて、自然に生じるものだ」という指摘を受けたことがありました。 これは、私にはぴんと来ないものでした。 意欲というものは、搾り出すものなんではないかと、いつも思っていたからです。 それは、高校生ぐらいからそのように思っていました。 具体的には、自分の限界を超えるようなもので、一般的な(または特殊な)競争の中に身をおくということです。 そこでは、自分の興味・関心という要素は一切入ってこないといってもいいかもしれません つまり、ある競争の中で、より上位に食い込むことを目標として、そのために何をしたらいいかを思案し、実践するということだけを要素とした心理状態が、「意欲がある状態」と感じていましたし、そういうもんだと思っていました。 それは、高校生時代から、10年ほどはまさにそのような中で、常に生活していたように思います。 結局、疲労困憊し、うつ病となっても、意欲とは上記のような心理状態を私の中では言うものですから、ちょっと楽になると、意欲を持つことは簡単です。 何かの競争に身を置いて、自分を奮い立たせればいいからです。 ところが、その意欲は、若いときから並べても、数年、数ヶ月、数日と長続きしないので、「意欲がなくなった」と、その段階で医師に報告するのです。当然、体もだるいです(数ヶ月寝込んだこともあります)。 カウンセリングの場で、上記のような話に関連して、以下のような話しもしたことがあります。 「私が今の状態で、意欲がない(うつ病だ)というのであれば、私は、小さな頃から意欲がなく、小さな頃からうつ状態だった」 「自分が何を好んで、何を嫌うか」そんなことを考える暇はなく、日々の対処で精一杯でした。 私がこのようなことを前提として、興味関心に支えられた(自然に生じるらしい)意欲を持つには、やはり「探す」ことと、「意外な感覚に気づく」ことが重要なのではないかと、ぼんやりと考えています。 そして、探すのは、実は幼少のころの厳しい環境の中でも、わずかに残っている「熱中したこと」「自分の世界」というものに着目するといいかもしれないと思っています。 追記: この私の言うところの「搾り出す意欲」というものは、file365の「阻害する力」に関係しているような気がします。 file 365 治る力と阻害する力の想定 http://nichinici.exblog.jp/2795904/ 関連記事: file315 今まで,何を見て生きてきたか。 http://nichinici.exblog.jp/2136070/
※ この記事は、わかりにくい側面があるので、図を入れる予定です。
file 344 言葉に振り回されない(file343補足記事・言葉を重視しない理由) file343の記事(file 343 原理原則を知ることの効用http://nichinici.exblog.jp/2446493/)の最後で、言葉を余り私は重視しないことに言及しました。 このことについての、補足と、解説をさせていただきたいと思います。 まず、私は、心のトラブルや、うつ病になってから、多くの本を読みました。 それは、簡単なうつ病の本から、脳の中の仕組みの本、脳内物質でこころが快適になるという趣旨の本、睡眠改善に関する本、ポジティブシンキングの本、ネガティブ症候群の本、アダルトチルドレンの本、家族機能に関する本、アルコール依存の本、リストカットの本、過食拒食の本、アサーションの本、認知療法に関する本、小さなことにくよくよしない本、自律訓練法の本、身体の使い方の本・動作法の本・森田療法の本・人間関係に関する本、イメージに関する本、自閉症の体験談、不登校の本、暴走族上がりの人の本、障害者の本、心理学の入門書、哲学の解説本、仏教の解説本、きわめて著名な心理学者の本、性格は変えられると主張する本、心を楽にする本、驚異的なベストセラーになった解剖学者の最近の本、などなど・・・。 どの本を読んでも、納得できることが多いのです。 しかし、どの本を読んでも、自分のこころを変える(主観を変化させる)ことにダイレクトに役立つ感じがしませんでした。 簡単にいえば、 わかった気になるけど、よくわかっていないようだ。 その場では感動するが、それでとたんにいい効果があるように思えない。 その場では技術を学んだが、マスターするにいたらない。 その場では脳みその中の問題を理解したが、どうやったら脳みその中を変えることができるかわからない。 その場では、こころの改善方法に納得したが、やってみてもいまいち続かない。 結局、その場では「インパクトを感じる」が、それだけで、すべてが解決するわけではないんだなあ、という結論です。 本というものは、当たり前のことですが、文字をつなげて、文章を作り、それをさらにまとめて、大きな筆者の考えを表現しているものです。 その本(文字)の背後には、筆者のあらゆる体験(リストカット体験、医師・カウンセラー・こころの研究者としての観察体験、心の苦しみを乗り越えた人固有の体験などなど)が、詰まっているものです。 それを、読み手が、自分のものとできるかは、そう簡単なことではないと思うのです。 それは、そもそも、読み手と書き手の生きてきたうえで体験していることが、大なり小なり異なっているからだと考えます。 例えば、私はうつ病ですが、うつ病の方のブログを読んでも、どうもピンと来ないこともあります。ブログ上に書いてある記事を読むと興味関心がいろいろおありになるようであり、これほどに外界に興味がわけば、うつ病ではないんではないかと思う場合もあります。 しかし、医学上は「うつ病」なのでしょう。 ということは、Aさんも、私も「うつ病」という分類に分けられたとしても、体験されている苦しみの種類は、異なっていることがあるように思えるのです。どちらがどうというものではありません。 私のように「根が深い深いうつ病(と自覚)している」もあれば、「たまたま超多忙の時期が続いたことによる急性のうつ病」もあると思うのです。 当たり前だ、と思うかもしれません。 では「自己肯定感がもてない」という、アダルトチルドレン問題の本などで出てくる言葉はどうでしょう。 自己肯定感とは、具体的にはどんな感覚なのでしょうか、それが欠けることでどのような振る舞いにつながるのでしょう。それは「感覚も」「振る舞いも」人によって異なっているのではないかという、私の考えがあります。 例えば、自己肯定感がもてないと自覚する、ABさん2人がいるとします。その二人の主張される(自覚されている)「自己肯定感の欠如とは、どのようなものを言っているのでしょう? ただ、自分を苦しめる、何らかの思考回路を持っているんだろうということを自覚されているということぐらいは共通しているような、気がします。 では、ポジティブシンキングとは、どのような感覚なのでしょうか。どういう行動に出る心の状況なのでしょうか。 例えば、ポジティブシンキングを持っていると自覚する人A・Bさん、2人いたとします。 A・Bさん各人の、持っているそのシンキングも質も、感覚も、行動も大なり小なり異なっていると、私は思います。 ただ、精神衛生上、いい効果があるものの考え方、捉え方(認知の枠組み)、解釈の仕方を持っているということは、自覚されているということぐらいは共通しているような気がします。 結局、本を読まなくても(文字が読めなくても、言葉を知らなくても)、自己肯定感を持っている人は持っているし、ポジティブシンキング回路を持っている人は持っているし、うつ病である人はうつ病症状を持っているのではないでしょうか。 そうなってくると、そもそも他人の言葉を利用するだけで、自分の心の問題を改善させようというアイデアが、それほど有効ではないという気がしています。 言葉は、情報を共有する手段としては、非常に有効な場合があります。また。知的な面白さもあります。 それがもっとも機能するのは、非常に類似した共通の体験がある場合だと思います(数学・物理の数式・数字など、その際たるもののような気がします)。 こころの問題が生じた場合、、あまり一般的ではない問題状況にさらされてきてきている場合があると思います(とんでもない家庭環境だったなど)。そのような場合、特定の議論に深入りすることの効果は、人によって効きが違うと思います。 効果があれば深く学べばいいと思いますが、そうでなければ、とりあえず忘れた方がいいのではないかと思います。 何を大切にするかというと、言葉の背後にある体験なのです。 それは、他人の体験以上に、ご自身の体験です。 自己肯定感の有無をチェックしている暇があれば、自分がどういう体験をすると快適になるのかを模索する方が、一生使える体験を得る可能性があると、私は思うのです。。 そして、その体験というものは、特殊なものではありません。 日光に浴びると気持ちいい、散歩すると楽しい、月がきれいだ、安全な友人とご飯食べると楽しい、よく寝ると気持ちいい、身の回りを清潔にすると快適だほとんど、サルと同じぐらいの動物的な体験がまずベースになるのではないかと思うのです。 ですから、どのような体験がしたいか、という場合、「自己肯定感が持てるような体験」という難しい目標より、「温かい日を体全身で受ける気持ちよさを半年続けたい」「より楽に、身の回りを清潔にしたい」と目標を立て、そのために、アイデアを練るほうが、結局、心の問題を改善する上で、有意義なのではないかと、私は思うのです。 そして、さらに私が重要視するのは、そのような、ご自身固有の有意義な体験を積み重ねるとこは、ひいては、ご自身のパフォーマンスを最大に引き出す契機(引き金)になり、社会的にも、生物的にも調和が取れた存在になれるのではないかと考えるのです。 ですから、ある程度、本を読んだら、あとは、安全に外に出たり(散歩など)、体を動かしたり(掃除・睡眠など)するといいと思います。 そこでは「これまでの自分でも気づかなかった意外な感覚」というもの、にご自身で気づく必要があります(きわめて重要)。 (この方法については、ゆとり・感覚集中・クローズアップということが重要に思えますが、またわかり次第記事にいたします) 追記:言葉に関して重要なことは、実はたくさんありますが、心のトラブルを解決する上で大切なのは、、 「ご自身(自前の)の言葉を持つ」 ということでではないかと思っています。 ご自身で、言葉を作ることは、全くの自由です。 その言葉に、ご自身の体験を詰め込んで、使えるようにしておくことは、非常に有意義だと思います。 ↓ 参考例;ほっとする言葉を探す file334 ほっとする言葉(大丈夫だよ) http://nichinici.exblog.jp/2331809/ 下園氏の著書:プチ認知療法で述べられている趣旨も参考になると思います。 カテゴリの参考図書をで紹介しています。 関連記事: 直るとはどういうことなのでしょうか? http://nichinici.exblog.jp/1781196/
file334 ほっとする言葉(大丈夫だよ)
ほっとする言葉を探して、気持ちが安心したという報告をさせていただいたことがあります。 参考記事:----------- 今回は、そのレパートリーを見つけたので、追加報告です。 それは、 「・・・・しても、大丈夫だよ」 「・・・・して、いいんだよ」という構文です。 ・・・・には、自分が辛かったことや、失敗したこと、後悔していること、避けられなかった出来事、記憶、など、いわゆる「不快な出来事の記憶」を入れます。 そして、寝る前、入浴時、散歩時に、そのような言葉を用意しておいて、唱えてみるというものです。 私の例ですが、いかに列挙します。 ・試験に落ちて、いいんだよ ・会社首になって、いいんだよ ・入れ込みすぎて、精神疲労しても、大丈夫だよ ・テレビ見れなくても、大丈夫だよ ・イライラしても、いいんだよ ・パチスロして疲れきっても、大丈夫だよ 等々 これでほっとしたり、少しは気持ちが楽になった場合、いかにに自分を許容(受容)することができていなかったかということを意味する気がします。 その背後には、自分が自分なりの完璧さというものを持っていることを示唆するものです。 そして、その完璧さというもの(いわゆる完璧主義)が、どうして必要だったのか、ということを考えるきっかけを与えてくれる気がします。 最近の私は、基本的に、どういう思考・傾向(否定的思考・完璧主義など)があっても、それは、ある一定の条件、環境の下では、自分の精神を維持するために必要なものだったと解釈するようにしています。 それが、今現在は不要になっている場合もあるかもしれません。 必要であれば、維持すればいいし、不要であれば、破棄する。そして、同時に新たなものを作り上げる工夫が必要だと思うのです。 とはいえ、そのようなことを文字で書く(口で言う)のは簡単ですが、破棄して、作り上げるという作業は、そんなに簡単なことではないかもしれません。しかし、成功すれば、いいことがあるんだと思います。 必要か不要かは、現在のご自身が、精神的に苦しんでいらっしゃるか否かということが、第一の基準ではないでしょうか。 そして、不要だが捨てられないという場合、そこには、幼少期から様々な環境下で培ってきた価値観(何が大切なのかということ)が影響しているような気が、自分ではしています。 関連記事: file 304 心理的背景の改善の模索(フィードバックシステムの模索) http://nichinici.exblog.jp/1950858/(必読) ホッとする言葉を探してみる http://nichinici.exblog.jp/1636580/ ホッとするイメージを探してみる http://nichinici.exblog.jp/1703065/ 手を洗ってホッとする場合がある http://nichinici.exblog.jp/1950126/ < 前のページ次のページ >
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