2015年 07月 26日 ( 1 )
file697 自虐的信念も、一つの思考(言葉の塊)にすぎない、という発想は本質を変える
file697 自虐的信念も、一つの思考(言葉の塊)にすぎない、という発想は本質を変える


 認知療法の本(いやな気分よさようならや、不安もパニックもさようなら(いずれも星和書店)を読んでいて、下向き矢印法*で、暗黙の仮定を見つけ出したり、自虐的な信念と呼ばれる(完璧主義とか、業績主義、」承認欲求性、愛情必要性などの信念)ものを見つけ出して、それを、書き換え、さらに、現実的に検証してみるという方法は、いくつも技法が乗っています。

 その中で、あるときに、自分のこころに妙にに引っかかるというか、ほっとさせられる文章というものが、本の中にあります。
 
 その一つが、私の場合「そういう信念を持つに至ったのは幼少期の人間関係にあるとしか、言いようがない」(それ以上は、難しいから深入りしないという感じ)の記述が、ありました。

 自分の日常生活上で、CBTを生かそうとするとき、自分をリラックスさせられる、簡単な文章を持つことは、有意義だと想います。
 
 初めからうまく出来る人はいない。
 日本語が話せれば(うまく話せなくても)かまわない。
 緊張は、強めのかゆみにすぎない。
 伝えたいことの半分でも伝われば十分である。

 など、自分なりの、簡単なフレーズが見つかってきます。


 そういうことを積み重ねていくうちに、あるとき、上記の「信念も、幼少期に何らかの理由で教育された、一つの考え方にすぎないのだ」という発想が、すごく自分を楽にすることを見つけました。
 
その時は、気持ちが、ぐっと、軽くなるのが身体レベルで生じます。

 そして、その幼少-青年期に学んだ何かしらの信念というものは、言語的には、言葉の塊(思考の一つ)として、検証能力、洞察能力、相手の事情を知る力を持たない幼少期の人間には、あたかも、絶対普遍で世界を統一的にはかれる(道徳性も含めた)、ものさしであり、ルールであるように見えます。
 しかし、実は、そうではないと言うことは良くあることです。
 なぜなら、その教育をした人自身の、困っていることや、引け目だったり、恥じている部分だったり、欠けていると思っているものを「よかれと思って」教えようとしたことの場合が多いからです。
 大抵、そういう動機から出た「教え」というものは、狭量なものであり、未来志向ではなく、将来予測できない人間の営みにおいて、うまく適応できるための、開かれて、柔軟な信念を持ってほしいと言うよりは、極めて限定的だったり、技術的だったり、能力における高さという、狭くて、融通のない信念を持たせることであったりするのです。熱心な教育者であるあまり、自分の抱えている問題が、普遍的に自分の子供なりにも大切な問題になる「はずだ」と誤解して教育してしまう例です。

 そういうことをうまく覆す言葉を持つことは、非常に、認知療法の中で自分の気分の安定に役立ちます。
 自分の信念は、所詮教育上得た一つの考え方にすぎないのですから。





〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ
にほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 健康ブログ 認知行動療法へ
にほんブログ村
[PR]
by nichinichiso | 2015-07-26 16:26 | 自分を知る